昭和四十五年二月二日 朝の御理解
御神訓一、大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ。
ここのところを頂きましたら、それを信じ、それを行うと。「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」というそのことを信ずる。それを信じて行う。「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」と。
これは大地ということは、いわば地球上ということだろうと思います。だいたいは天地とおっしゃるところだろうけれど、天地とは言わずに大地とおっしゃる「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」と。だからこそ次には、「ご地内をみだりに汚すなよ」という御神訓になっております。
地球上に表れることのすべて、それがすべて金乃神の大徳に漏るることはなきことと頂かなければならない。だから、それを信じ、それを行う。
だからそのことね、信じられるところに、そうだと。この地球上にです、どのような些細なこと、どのような事柄、どのようなものでもです。金乃神の大徳に漏れておるものはないんだと。それを信じて行う時にです、どういうことになりますか。ただお礼を申し上げるほかはありません。
「大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ」ということを信じられる時です、もうお礼を申すほかはありませんと、いうような素晴らしいことになってくるのです。
私は毎朝、ここの廊下のところに出まして、天地を拝ましてもらいます。天を拝し地にひれ伏すような思いであります。かすかな音ではありますけれども、拍手させて頂くこの音が、天に響く思いが致します。地の底に伝わっていく思いが致します。
それはどういうところから、そういう実感が生まれるかというと、無心に拝むからなんです。無心に拝む。これは一心に拝むというより、もっと奥の深い響きを持っておりますねえ。「わが心に神がござるから一心を立つればおかげになるのじゃ」という一心。一心不乱。一心に心を乱さずにそのことを祈り願う。その一心という事よりも、その一心の一すらないのです。
いわゆる無心に拝む。無心程だから、天地にこだまするものはないことを実感いたします。ゆうならば、もっと言うと、無条件ということにもなりましょうねえ。
条件があって、天を拝し、地を拝むのじゃない、いわゆる無心なのだ。
私共は、その無心をいつの時でも頂きたい、その無心になりたい、それも、その根本的なところはですねえ、それを信じ、というところが要るのです
大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞという、それを信じというものがです、あっての無心というものでなからねば、値打ちはないです。
只ぼんやりと、無心に拝んでおるというだけではいけない。金乃神の大徳に漏るるところはない、この大地であり、この地球上の全て、そのことを無心に拝む。
最近申しております、「頂きますという心あらば障ることない」と、「当たることない」とも、言ってあります。
と言うことはね、その働きを拝むのです。風邪を拝むと、だからその風邪をひくと、その風邪そのものを拝むというのではなくて、その大元であるところの働きを拝むのです。
そこには大地の内において金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞという、そのことを信じて、それが拝めれるということになります。ですから、やはり、そこが根本なんです。
例えば、そんなら「菜園に出て菜を抜く時、大地を拝む心あらば」とおっしゃるのです。大根を拝む心のあらばとはおっしゃってないでしょうが、「大地を拝む心あらばおかげがある」と、「それを煮て食する時、神様頂きますというこころあらば」と言っておられます。
ですから、やはりそこに、大地を拝むそのことと関連がある。いわゆる金乃神の大徳に 漏るることのない、その一本の大根の元の元を思う時に、金乃神様のお恵みを、拝むのです。だから、なる程、当たる事がないのです。だから、さわる事もないのです。
大地の内において金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞ。地球上のいわゆる全て、金乃神様の大徳に漏るるところはないのですから、だから拝める、だからそれが信じられておらなければ拝めないでしょう。
いかにその無条件というか、素直が求められるゆえんですねえ、信心させて頂く者は素直でなけりゃならんということはそれなんです。お参りをするのも、御用をさせて頂くのも、いかに無条件のものでなからねばならんかということが分かります。
そのまあ、いっちょ向こうが分かっておるから出来る。金乃神の大徳に漏るるところはないことが信じられておるから拝めるのです。無条件の御用が出来るのです、なるほど、素直に聞かなければもったいないことになるのです。金乃神の大徳に漏るることろはないと信じたらですよ、先生はあげん言いなさるけれども、そんならああたこうじゃないの、ああじゃないのと、例えば、理屈を二つも三つも並べて、いわば肯定しようとしない。否定しようとする。
ですから、どうしてそういうような心が私どもの心の中に起こってくるのか、どうして無心になれんのか、そして初めてそこに一心が足りぬからじゃということになるのじゃないでしょうか。
私どもの目指すところは、やはりこの無心、その無心を頂くために、私どもはもっともっと一心に勉強しなければならん、一心に御祈念をしなければならない、一心に御用さしてもらわなければおられない、ということになるのじゃないでしょうか。
昨日の朝の御理解に頂きましたように、どうしてお互いの信心が途中でくだけたり、止めたりできんのだろうかと、それは育ってないからだということでした。
和賀心の芽が芽生える、それを育てることをしないから、育てるならば育てる喜び、育てる楽しみ、育つ喜びというものがあるのですから、途中でますますその信心は、深こう熱っぽくなってくるはずなのですよ。
ところが、そこに不純なものがある、信心しておってどうしてとか、いわゆる理屈が出てくる。私は無心に拝むということ、こんな素晴らしいことはないと思う。
もうそこへ本当に人間の救われた姿というのは、そういう時じゃないでしょうかねえ。それも、大地の内において金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞと、いうことが信じれて、それが行える時です。無心。無条件。その無心に拝めれる心境。今日はたくさんのことを頂いてから、だから、ここに一寸、控えたんです。
[無心に拝む
天を拝し、地にひれ伏す ただ、お礼を申す外はありません。 御祈念
一心、一新
一心不乱
心境一変
神境]
と、そんなことをやつぎばやに頂いて、それをひとつに控えさせてもらったんですけれども、それをいわば繰って申し上げておる訳です。頂くことは、今の「大地の内において金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞ」と。
そうすると今朝方、起きがけに、御心耳に頂きますことが[赤銅鈴之助]と頂いた。どういうことだろうかと、私にあちらから出て来る出て来る思わせて頂いたんです。だから、そういうようなことを私の心の中に頂いて、今朝の御理解を聞いて頂いておる訳です。
そうして、結論することはです。無心に拝むとゆうこと。だから、只、ぼんやり拝んでおることは無心のようで無心ではない。その根底になるものがです、いわゆる大地の内において、金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞということが信じれ、それを信じて行うということ。確かに金乃神の大徳に漏るるととろはないんだと、それを信じてのいわゆる無心でなからなければ、いわば値打ちがない訳です。
拝むというても拝む心あらば頂きますという心あらばという、頂きますということです、そんなら、大根を、ひいてきた、そん時大地を拝んだ、それを神さま頂きますという心あらばという、そんなら、その大根を頂きますというのではなくて、それまでの神さまの働きをいうな頂きますということになる。
だから、なる程、これなら障ることなしということになるのです。だから、そこの辺にはね、もう理屈はないところまで、いわば高められたものです。そういう高度ないわば頂き方なのです。
そこにね、私は無心に拝むということになり、ただ、だから、もうお礼を申し上げる他ありません。
地球上の全て、それは雨もあろう、嵐もあろう、地球上に起きてくるその全ての中には・・・・。難儀もあろう、様々なことがあろうけれども、それが全て金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞというところから、それがあらせられておるということなのですから。それを信じ、それを行い、いわゆるそれを拝む、無心に無条件に拝む、無条件に頂く、ただ、お礼を申す外はありませんということ。
「信心と、赤銅(しゃくどう)は黒いが値打ち」ということがあります。赤銅鈴之助とは、そんなことだと私は思うた。赤銅(しゃくどう)は黒いが値打ちですが、それを赤銅と男とは黒いが値打ちと申しますが、今日私はここのところを赤銅と信心は、苦労が値打ちだと、だから言える訳です。
勿論、苦労ということは、修行ということです。だから信心に修行はつきものですが、その修行がね、強ければ強い程、大きければ大きい程、それは値打ちがある訳です。
そげんまでせんでもと、昨日私がある青年のお取次をさせて頂いて、そげん一遍にせんでんと思いましたけれど、やはり、今日の御理解頂きますように、苦労が値打ちであるとするならばです、これから向こう三年間テレビを見ません、高校時代から頂いてきた煙草を吸いません、朝の御祈念には必ず出ます。
例えばそのようなことがです、まあだ青年式を終えたばかりの青年には、私は無理だと思ったんです。思ったけれどもです。やはり、私はそれをそのまま、お取次させて頂いた。
何故かと言うと、今日、それが言えることはです、なるほど、信心と赤銅は黒いが値打ちだからです。また、本気でこちらが修行そのものになろうと思うたり、それでもまだ足りない位なんです。本当いうたらそれにかかるということになったら、それに専念するということになったら、もっともっと他にもいろいろ工夫していると思うのです。
信心と赤銅は、だから、黒いが値打ち。しかも、その鈴之助というところがいるでしょう。それがです、そのことが苦しい苦しいではなくてです、例えばそのような自分の発想によってです、修行させて頂こうということを行じさせて頂いてです、例えば、一日その事を本当に行じ終わらせた時にです、心の中に、それこそ金の鈴の音色を聞くほどしの
有り難さが頂けるのですよ。信心修行ということは・・・。鈴之助ですよ。
皆さんも体験がありましょう、本気で今日はこのことをと思うて、心にかけどおしにかけて修行を終わらせて頂くとです。その時には苦しいことであったけれども、おかげ頂いて有り難かったというもの、自分の心の中にです、金の音色の鈴を聞くほどの有り難さ、いわゆる妙音に触れることが出来るのです。
そこに、只、お礼を申す外ありませんという程しの、私は心境が頂けると、こう思うのです。その時は苦労だった、けれどもそれを頂き、終わらせて頂いた後はです。只お礼を申すのことの他はありませんということになるのですよ。
しかも、そのお礼の根本は、大地の内において、金及神の大徳に漏るるところはなきことぞ、この地球上に起きてくる全てのことが、あなた様のお働きでないものは、ひとつもありません、ということを信じて、そのことが行われる。
その後になる程、只お礼を申すの他ありませんという信心させて頂く者、修行させて頂く者だけしか分からない、心の妙音に触れることができるのですよ。
そこからね、心境一変ということになるのじゃないでしょうか。ものの見方、考え方、その全てが変わってくるのだ、心の状態が、そのように変わってくると、見る目が違う、聞き方が変わってくる。
私は今日は、様々にこのようなことを頂いて、それを綴り合わせてお話させて頂きましたが、結局、結論としてです、ただ、お礼を申すの他はありませんと言う、もう信心、最高の境地がです、頂けれる。
そういう境地を頂きますために、皆さんがもっともっと一心不乱にならなきゃなりません。その向こうに無心がある。無心に拝ませてもらう、無心に祈念をする、もうこのように素晴らしい境地はないのです。もうそれはね、神様と人間とがひとつになった姿なんです。無心という時は。
どうぞ皆さん、折角、信心させて頂くのですから、そういう信心をね、目指しての全てがそのための修行であると、分からしてもろうての信心にならなきゃならないと思うのですね。どうぞ。